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クルー紹介

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剣持孝雄

 

船大工担当

神奈川県茅ケ崎市在住、生まれも育ちも清水湊。

自称、相模灘御船見奉行と清見潟海賊衆頭領を兼務。

自宅ベランダにてビール飲みつつ相模灘の異国船を監視、清見潟ではサンチャゴ丸に陣取り夕陽を愛でながら熱燗を味わい、駿河湾全域に目を光らせるという重要なお役目に日夜励んでいる。

幼いころから海に親しみ、沖を帆走するヨットにあこがれて無謀にもヨット経験皆無の5人で船長になり数々の武勇伝を経て清水から西伊豆方面の制海権はほぼ我が手中に収まりつつあり…と思う。

リタイア後はヨットをメインにテニス、クロスバイクが遊びの三本柱。

今はポンツーンでの五目釣りで酒の肴を自給自足、時代小説片手に夜の海で一献傾けるのが楽しい。

 

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中小路英孝

 

漁労担当

 

京都府出身。東京都国分寺市在住。

10代で始めた楽器(フレンチホルン)演奏、20代で始めた釣り、30代で始めたヨット、

40代で始めた自転車、50代で始めた歴史探訪旅行、と趣味を増やし、日々の生活の基本に据えている。

季節ごとに住むところを変え、各地の文化・人情・食物を堪能するロングステイライフが次の目標。

海釣りで各地の遊漁船に乗りまくったことから、「日本の船には丸がないとアカン」と強引に船名をサンチャゴ丸にした張本人である。

 

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和田哲昭

 

食糧調達、ワイン担当。

 

鳥取県出身。千葉県習志野市在住、娘一人の3人家族。

18歳まで海・山と自然に富んだ鳥取に居ながら、バスケット部の監督命令により「海水浴禁止」を実直に守り海知らずのまま社会人となる。社会に出て数年で仕事・人間関係の壁に悩む中で1993年春、現メンバー剣持さんによる「ヨットオーナー募集」プレゼンを受け、「自己改革」の目的から家内と一緒に小型船舶操縦士免許を取得、海の世界へと。

 「自己改革」の成果は不明だが、メンバーと一緒に大海へ乗り出すことで、改めて自然の美しさ、厳しさ、偉大さを体感し、またメンバーやヨットを通じて知り合った人達との交流は貴重な時間であり、私の人生に彩りをつけてくれている。

 2017年春に脳出血により左足麻痺、味覚・嗅覚を失ったが、2018年には左足麻痺はほぼ完治、味覚・嗅覚は治療中。

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渡辺宏

​広報・ホームページ・記録担当(四半世紀以上にわたり日記は1日も欠かさず書いている)

長野県出身。東京都在住。

両親とも先祖代々の信州人で、海を見ることかなわなかった一族の宿命を断ち切り悲願の海洋進出。

​投資用にプールしていた虎の子の資金に目をつけられ、共同オーナーに引き込まれた経緯も、今となっては運命の出会いと感謝する心持に。

​クルー中で唯一の一級小型船舶操縦士免許所持者だが、操船の実力は?

2004年6月末でひとまず会社員生活からリタイアして、現在は資格試験のために学生生活。

日本パブリックリレーションズ協会認定PRプランナー。

趣味は書道(雅号は「晄仙」)と城郭巡り。最近は山城・城址を求めてけもの道をさまよう日々。

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剱持惣一郎 *2019年5月より名誉船長

担当 クルー作業全般 ワッチ

クルーで只一人の戦前(昭和15年)生まれ。)旧清水市で生まれ18歳まで育ち、現在は川越市に居住。技術士稼業。

ヨットは中学2年の夏休みに、清水の実家の裏の袖師船溜まりで、同級生のK君とM君と一緒に、貸しボート屋のオヤジさんの指導でディンギーに乗ったのが最初である。当時は木製のボートに帆柱を立てた後、ボート中央の囲い穴から鋼鈑のセンターボードを下ろし、風が無ければラダーをギコギコ漕いで進むのであるが、アビーム、風上遡航40度、タック、ランニングなど、ヨット操船のイロハを一応仕込まれた。6歳下の弟は当時小2だった。

ヨットはその後大学時代に一度、友人と琵琶湖でスナイプに乗ったきりで、忘れていた。

その後上京就職し幾星霜、53歳の時に会社の健康診断で大腸癌が見つかり、急ぎ築地の癌センターを受診し手術を希望するも、何と入院は6か月待ち。丁度見舞いに来た6歳下の弟と二人で築地から銀座方向に暗澹たる気分で歩いていると、突然弟からヨットの出物があるので資金を出さないか、と言われた。聞けば、清水の従弟の話で安い中古のヨットが見つかり、会社の部下三人を上手に巻き込み共同出資させたが未だ足りないので、兄貴も一口乗らないかとのこと。生きるか死ぬかの時にそんな事を言いに来たのかと思ったが、当時癌の手術は5年生存すれば成功と言われていたので、どうせ5年で死ぬのなら、少年時代に清水で習ったヨットをもう一度始めてもいいかという気持ちになったから不思議だ。結果的に、それから四半世紀が経ち78歳になってもサンチャゴ丸のクルーとして、他4名のオーナークルーと共に駿河湾でyachtingを楽しんでいるのだから、人生とは妙なものだ。今考えるとそのきっかけは、弟が言い出したタイミングだった。絶妙のタイミングだった。

最近は寄る年波には勝てずcrewは卒業させて貰いpassengerを決め込んでいるが、今後は人生で残っている宿題を片付けるため、平成の御代限りでOBになる予定である。勿論、宿題が片付いて気力、筋力(金力)が残っていれば、現役復帰も夢ではないが・・・

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